おもしろいことおもしろいこと

主に見てきた芝居の話

壽 初春大歌舞伎 夜の部@新橋演舞場

1月26日(木)、新橋演舞場に壽初春大歌舞伎の夜の部を見に行つてきた。
楽の日にしたのは、とくに意味はなかつたが、今となつてはよかつたかもしれない。
吉右衛門で連獅子を見るのなんて、これで最後かもしれないもの。
 
幕開き直後の「矢の根」は役者もそろつたいい一幕。
ここ三ヶ月ばかりいろんな五郎を見てきたが、「やつぱり五郎はかうでないと」といふ感じ。坂東三津五郎
特に最後、馬にまたがつて大根を振り上げたところなんかはぞくぞくするほどやうすがよかつた。舞台写真もこれは完売。
十郎の田之助もよかつた。以前から立ち居が不自由なやうすが見受けられていろいろ心配だつたが、セリフもはつきり聞こえてゐたし、なにしろ十郎らしい風情がいい。
見てゐて初春めいた気分になつた。よかよかよ。
 
「連獅子」は、事前に大変な褒めやうの感想ばかりを目にしてゐたので、実は少々心配してゐた。
実物を知る前にいい評判ばかりを聞いてしまふと、実際に見たときに「え、こんなもの?」と思ふことが多いからだ。
今回も「別にフツー」と思ひながら見てゐたが、最後で来たね、なんだらうね、これ。
ひとつには、曲がとてもよくできてゐる、といふのがあると思ふ。
最後が盛り上がるやうにできてゐるんだよね。大抵の曲はさうだらうとは思うけれど、石橋物でもこの「連獅子」とか「鏡獅子」なんかは盛り上げ方がとてもいいと思ふ。
でもまあやつぱり、演者演技、かなあ。
それまで「別にフツー」とつきはなして見てゐた石の心を動かすものがあつた。
さういふことだらう。
鷹之資は、二年前に富十郎と出た「石橋」でもそもそ踊つてたあの子がねえ、と、見違へるやうな出来。若いつていい。伸びしろがあるつてすばらしい。顔もまだこどもらしい感じが残つてゐて、いたいけなところがさらにいい。
吉右衛門は、「決して踊りが上手といふわけではない」といふ云はれ方をするれども、今回見てゐて踊りは上手下手がすべてぢやないんだなあとしみじみ思つた。
特に前シテの大きさ、威風あたりを払ふ感じなんか、「いいぢやんいいぢやん」と思ひながら見てゐた。
好きだから? さうねそれはあるかもね。
 
「め組の喧嘩」は、歌舞伎を見始めたばかりのころ、菊五郎の辰五郎に團十郎の四つ車で二度ほど見た。その後も二三度見てゐるとは思ふ。
 
菊之助の藤松はちよいとセリフを歌ひ過ぎるきらいがある。まちつとさらつと云はないと鉄火な感じが薄くなる。もつたいない。
時蔵のお仲が色つぽくてねえ……。花道を出てくるところで思はずうつとり眺めてしまふ。それでゐてきつぱりはつきり意見するあたりとか、もう惚れ惚れ。
自分では勝手に、時蔵は錦之介の相手役をやつてたのが今生きてきてるんぢやないかなあと思つてゐるが、実際はどうなのかわからない。
 
最後、相撲取りと一戦かますぜつてところで、菊五郎の辰五郎と鳶のもののやりとりにはいつも胸が熱くなる。「いいな」「へい」「ほんたうにいいんだな」「へいっ」てあたり。
 
楽といふことでか、ご馳走として大河の又八が取つ組合ひのところにも出てきて、「みんな持つていつた」と云はれてゐたが、あまりさうは思つてゐない。
やはり、鳶のものたちが梯子で屋根の上にあがる様、手も使はずなんでもないやうなその身軽さ、また梯子をはづした後、先に屋根の上にゐる同志の手を取つて屋根にのぼる姿にぐつとくる。
 
それにしても菊五郎の辰五郎はいつ見てもほんとにすてきなんだけれども、今後は誰がこの役をやるんだらう。誰がやるにしても、この辰五郎と比べられちやふんぢやあさぞかしやりにくからうなあ。
 
そんなわけで今月の観劇はめでたく打ち出し。
今月の演舞場は昼の部も夜の部も大歌舞伎らしくてよかつたよかつた。

 


 

スパマロット@赤坂ACTシアター


1月21日(土)、赤坂ACTシアターに「スパマロット」のマチネを見に行つてきた。
Holy Grail Made with Spam
 
幕開き直後から客席は笑ひの渦。幕の降りるまで、ずつとそんな調子だつた。
終演後も、「おもしろかつたねー」「(笑ひつぱなしで)おなか痛くてつらいわー」などと語り合ふ人々の聲を耳にした。
成功だつた。
さういふことなんだらうな。
 
或は、一言、いやさ、二言も三言もある人々は、ただ何も云はずに立ち去つただけかもしれない。
 
たとへば、幕開き冒頭にマイケル・パリン(最近は「ペイリン」が一般的かと思ふので以下ペイリン)の「Finland」を元にした歌が披露されるんだけれども、その中に「Fish Slapping Dance」のパロディが出てきてこれの出来がなんともお疎末でなあ。
 
「Fish Slapping Dance」は「空飛ぶモンティ・パイソン」で放映された20秒足らずのスケッチ(コント)なんだが、これが何度見てもいい。何度見てもをかしい。なにがいいつてペイリンがかはいいんだよなー、なんだかわかんないけど。
パロディ版はこの「真面目にかはいい」感じが皆無だつた。
それで、この時点で既に「むう」だつたりはしたわけだ。
 
事前に見てきた人の話を参考に、「ホーリー・グレイルとはまつたくの別物」「舞台特有、モンティ・パイソン特有の毒は皆無」「池田成志を見に行くんだ、ヲレは」と云ひ聞かせて見に行つたものの、いきなりくぢけてしまつて、我ながら実になさけない。ほんと。
 
池田成志は、でも、といふか、やはり、といふか、最高だつた。
ランスロットはもちろんだが、フランス兵、ニッの騎士、ティムなんかが實によかつた。
理屈がないもんね。
あのどこまで続くんだといふ意味のないセリフ。
最高だね。
 
「ホーリー・グレイル」と比べてしまふと、「スパマロット」ではパッツィの出番と活躍が格段に増えてゐる。演じたのはマギーで、軽妙でいい感じだつた。マギーは「ホーリー・グレイル」ではエリック・アイドルの演じてゐた話のわからない衛兵の役もやつてゐて、こちらもよかつた。
ただ、まあ、「Always Look on the Bright Side of Life」は、やつぱりロビン卿で聞きたかつたかなあ、といふ気もする。
 
ロビン卿は戸次重幸。
今回のメンバからいつて、アーサー王はこの人ぢやないかなあ、と、見ながらしみじみ思つた。
なにしろ聲が王族聲だ。
やつぱり「ホーリー・グレイル」と比較してしまふが、「ホーリー・グレイル」のいいところはグレアム・チャップマンアーサー王、といふところにもある。
チャップマンは「空飛ぶモンティ・パイソン」でもシーザーとかえらそーな王様や皇帝の役をよくやつてゐて、さういふ役がぴつたりはまる。
ユースケ・サンタマリアが悪いといふわけぢやないけれど、残念ながら「威風堂々」とかいふ風にはいかない。ロビン卿なんかぴつたりだとは思ふんだけれどもねえ。
 
まあ、本場の「スパマロット」のことは全然知らないので、そちらはかういふやうなのかもしれない。それをそのまま持つてきたのだとしたら、上の感想はまつたく的外れだらう。
 
最後になるが、生オーケストラといふのはいいね。
最初、トランペットが若干フラットな気がしたけれど、全体的に生き生きとした演奏でとてもよかつた。
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壽初春大歌舞伎 夜の部@平成中村座


1月13日金曜日、平成中村座に壽初春大歌舞伎の夜の部を見に行つた。
それにしても、大歌舞伎、か。大歌舞伎、ねえ。ふむん。
 
まあ、それは平成中村座に限つたことではない。
今月は東京だけでも新橋演舞場に国立劇場、ル・テアトル銀座に浅草公会堂、そしてこの平成中村座と五座で歌舞伎を上演してゐる。
さらに大阪松竹座もあはせて六座。
そらー「大?」と首を傾げたくなるやうな座組・演目になつても致し方がない。
 
そんな中でも「対面」の勘三郎の十郎にはうつとりだ。
揚幕から出てきたときからその風情に見とれることしきり。
今回はこの十郎を見に来たので、まんぞくまんぞく。
十一月は「外郎売」、十二月はやはり「対面」と、五郎を制する十郎を三月連続で見たわけだが、やはり今月の十郎は格別だ。
そして、十一月の松也の十郎もまた、思ひ出しても惚れ惚れするやうな十郎だつた。
五郎を制する十郎の形は、どうも名優でもくづれやすいものらしい。
見てきた感じではそんな気がする。
見てゐるだけだと、腕の長さと肘の位置、手首の位置が関係するやうな気がするが、よくわからない。これだけの演目ならなにか口伝があるはずだし。
一番いいなあと思つてきたのは先代の勘三郎の十郎。なんといふか、ものやはらかなんだよねえ。これまたちよつと愁ひがあつて、いい。實にいい。
今回は橋之助の五郎とのバランスも絶妙で、ひよつとすると今月一番のeyecandyだつたかもしれない。
 
橋之助の五郎は、「かういふ役がやりたいんだ」といふ感じのする(と勝手にこちらが思ひ込んでるだけだけど)五郎で、大きくてよかつたと思ふ。
時々何云ふてるのかわからないのが玉に瑕、か。
 
弥十郎の工藤はちよつと悪役な感じが強かつた。
 
お染の七役は楽しく見た。
去年五月の「牡丹燈籠」は今一つだつたので、「土手のお六もあんなか知らん」と思つてゐたがさにあらず、いいぢやんいいぢやん、といつたところ。
竹川と貞昌がおんなじやうとか、演じ分けは完璧といふわけではないけれど、かういふのを「進境著しい」といふのかもなあ。
お光ものぐるひのくだりは、いつものかたくなつて踊りが小さくなるところが時折見られたけど、全編かたくて小さかつたどうしやうもない道成寺のころと比べると格段の出来だし。
あ、さうさう、でも動いてゐるとき手が大きく見えるんだよねえ。特にこのお光のくだりは笹を振り上げた時に肘のあたりまであらはになつて、そこだけめうに「男」になつててヘンだつた。
 
橋之助の喜兵衛はめうに愛嬌をふりまかないやり方が愛嬌を生んでゐていい。
歌舞伎座の八月興行などでは羽目をはづしすぎて「なにやつてんだよ」と思ふたこともあつたげな。
「士別れて三日、即ち更に刮目して相対すべし」つてことさね。反省することしきり。
 
番頭善六、なあ……。
先月の「切られ与三」の藤八もそうだつたけど、まうちつと、かう、やりすぎない方向にはできないものか知らん。
弥五郎とか幸右衛門とか、かうだつたかなあ。
やりすぎたくなる役だとは思ふし、さういふやり方もあるのだらうけれども、チトしつこい。
このあたりは好きずきだらう。
 
梅枝の女猿廻しと萬太郎の船頭が丁寧な感じ。
梅枝は演舞場にも出てるし、今月は大車輪の働き、だらうか。

 

新春浅草歌舞伎 夜の部@浅草公会堂


1月7日土曜日、浅草公会堂で新春浅草歌舞伎の夜の部を見てきた。
「敵討天下茶屋聚」の通し上演である。
 
最初にこの演目を見たのは今を去ることほぼ二十年前。
最後に見たのも同じ年。
 
最初のときは今はなき中座で、最後はこれまた今はなき歌舞伎座で見た。
 
中座で見たときの八十助(当時)の早瀬伊織が實にすばらしく、以降、八十助の演じた伊織を「伊織さま」と呼ぶやうになつた。
歌舞伎座で見たときは門之助で……いや、まあ、その……。
 
もとい。
 
今回の伊織さまは亀鶴。
この配役で見に行くことを決めたといつても過言ではない。
果たして期待したとほり、見てゐてにこにこしてしまふやうな、いい伊織さまであつた。
早瀬伊織は敵討をせんと志す若人である。
長い旅で月代も伸びてはゐるが、それでゐてすつきりしたところがある。
さはやかで凛々しくもあるが、敵を持つ身の愁ひを帯びた風情もある。
さうでないと、元右衛門が引き立たない。
早瀬伊織の出来如何で、元右衛門の出来もきまつてくる。
さういふ意味でも、亀鶴の伊織さまは大変結構だつた。
 
元右衛門は亀治郎。片岡造酒頭との二役である。
これがまた、實に楽しげに演じてゐる。
例によつて「分相応」を今年の目標に掲げる身ゆゑに三階席からの観劇で、花道はよく見えなかつたりするわけだが(浅草公会堂の場合は三階席の一番前だと舞台手前部分もよく見えなかつたりはするわけだが)、聲だけ聞いてゐると、「猿之助?」と思ふくらゐそつくりだ。「しゃししゅしぇしょ」なところまで同じである。うつかり、「香川照之も歌舞伎に出たら「しゃししゅしぇしょ」になつてしまふのか知らん」と思つたくらゐだ。
元右衛門のやうな役は、二十年前に見た勘九郎(当時)や猿之助のやうに、少し丸みを帯びた体型の役者の方が愛嬌が出やすからう。
亀治郎にはその点でハンディはあるものの、見てゐるうちにそんなことは気にならなくなつてくる。
六月には猿之助襲名を控へてゐることもあつてか、「亀」を用ゐた楽屋オチネタも多いがこれまたあまり気にならない。
最後太鼓橋を使つた演出も楽しかつた。
 
巳之助の源次郎は張り切つた出来だつたと思ふ。
去年七月に「車引」の杉王丸を見たときは、そのきまつた形の悪さに「うーん……」と唸つたものだつたが、今回はきまつた形のところはきれいにきまつてゐた。
聲のうまくセリフに乗つてゐないところはあひかはらずだが……これはそのうちなんとかなるもの、と思つてゐる。
 
聲がなんとかなるもの、といへば壱太郎か。
児太郎時代の福助を思ひ出すやうな聲で、あれほどキンキンとはしてゐないものの、なんか、もつと落ち着くといいのに、といつも思つてしまふ。
これもおそらくは若さゆゑのことで、そのうち落ち着く日もくるだらう。
葉末役。
 
聲が落ち着くといへば春猿
むかし右近の「義賢最期」の待宵姫を見たときはどうなるものかと思つたけれど、きつといい師匠・いいお手本がゐるのだらう、見違へるやうな心地がする。
今回の染の井も出番は少ないもののよかつたと思ふ。
 
はじめて見た時の葉末役だつた愛之助は東間三郎右衛門。
最近かういふ役が多いね。
これもちよつと出番が少ないなあ。
 
年始ご挨拶もやつた薪車は人形屋幸右衛門。気持ちのいい役だらう。
挨拶を見てゐても、「如才ないええ人なんやろなー」といふ雰囲気で、お年玉気分だつた。
 
初春の浅草公演、亀治郎はこれで最後なのだといふ。
今後、どういふ役者になつていくのだらう。
いろいろできるから、どうなつていくのか、さつぱりわからない。
そこがおもしろい気がするなあ。

 

坂東玉三郎初春特別公演@ル・テアトル銀座


お三輪ちやんは玉三郎だなあ。
といふのが、ル・テアトル銀座坂東玉三郎初春特別公演の感想だ。
1月6日金曜日に見てきた。
初日あたりはあまり大向かうがかからなかつたといふ話だつたが、この日は適度にかかつてゐた。
 
ここ数年、ほかの役者で見てきた「妹背山婦女庭訓」の「三笠山御殿」だが、特に不満のあるわけでもなく、「お三輪ちやん、あはれね」とか思ふてゐたわけだが、「やつぱりかうなうてはかなはぬかなはぬ」といふ「御殿」だつた。
 
まづ「口上」。
去年よりはやはらかくなつたか。
「(お客さまには)しばし現実を忘れて、古典の世界に遊ぶ」、そんな時間をご用意できたら、といふやうなことを云ふてゐて、「いいこと云ふなあ」としみじみ。
ほかにも、菊五郎劇団から松緑と右近を借り受けて、菊五郎からは快諾もらつて、といふ話とか、菊之助に雪姫を教へて「輸出輸入」なんぞと云ふたりとかいい話がつづく。
でも、「ふーん、去年の面子では「古典の世界に遊ぶ」のは無理つてことかねえ」などと考へてしまつたいぢのわるいやつがれであつた。
 
「道行戀苧環」は、右近の橘姫が踊れてはゐるのだがかたくて、「ずつとこのままか知らん」と不安になつたが、お三輪が出てくると俄然よくなつた。相乗効果といふアレだらうか。橘姫がかたいままだとこの幕成り立たないしね。
以前福助の橘姫に勘九郎(当時)の求女と玉三郎のお三輪でこの道行を人形振りで見たことがある。お三輪は大変結構だつたけど、橘姫も求女も「おつきあひ」といふ感じでなんだか可哀想だつたと記憶してゐる。
今回も「人形振りだつたらどうしやう。でも、玉三郎特別講演だしなあ」と心配だつたのだが、人形振りではなかつた。玉三郎は本行に近いやりかたを標榜してゐるやうに見受けられるが、別に人形振りにしなくても本行に近い形は実現できる。そんな一幕。
このあとの「三笠山御殿」も通じて、求女といふのはむづかしい役なのだなあと痛感する。笑三郎、悪かないと思ふんだけど、途中でその存在を忘れてしまつた道行であつた。
 
「三笠山御殿」は、松緑の鱶七がいい。
松緑は聲とセリフとがはなればなれな感じのすることが多く、また、躯の大きいわりには顔が小さいので全体のバランスが悪いなあと思ふことも多かつたのだが、今回はさういふ感じがまつたくなかつた。
まづ出てきたときの顔が文楽の人形の頭のやうでいい。もしかすると化粧をくつきりはつきりしたのだらうか、顔の小ささを感じさせない。
またセリフも聲の浮いた感じがまつたくなくなつてゐて、實にいい。
鱶七の、漁師めいた荒々しさや愉快なセリフもいいし、なにしろ大きい。
いやはやー、いいぢやん、松緑、といふので前半は大満足だ。
 
そして、やはりお三輪がなんとも。
実はこれがうまく書けないでゐて、あきらめやうかとも思つた。
よかつた。
これくらゐしか云ふことなくて。
 

これくらゐいぢめたくなるお三輪もさうはゐないだらう。
お三輪は杉酒屋の娘で、鄙の育ちではあるだらうけど、それなりに「お嬢さん」として扱はれることもあるだらう。そんな気の強さもある一方で、大層な金殿に尻込みするあたりのかはいらしさもいい。
いぢめの官女にむくつけき(失礼)感じが少なくて、最初は物足りないかと思つたが、かへつて女の陰険さが出る場面もあつたやうに思ふ。
官女たちにあれこれ指示されて、でもお三輪の想ひは次第に御殿の中にゐる求女さんに向いていく、この流れが實に自然。
官女たちに花道に追ひ出されて、祝言のなつたといふ聲を聞き、「あれを聞いては」で豹変するあたりなんかゾクゾクする。これが「疑着の相」といふアレか。
ここは、花道に出たりしなくて、髷に飾りで三方と結び連れられたりして気がついたときに髪の毛がくづれてしまひ、「今朝母さんにきれいに結ふてもらつたに」といふやうなセリフが入ることがあるが、玉三郎はこれをしない。
鱶七に刺されて以降のあはれさも絶品。「もう目が見えぬ」とかね。また苧環の扱ひ方がいとほしくてね。糸を巻いて、抱き寄せてといふあたりなんか、たまらないよ、もう。
 
と、書いてゐるあひだにも、どんどん記憶が薄れていつてるなあ。なんでとどめておけないのか。己が記憶力のなさを嘆くばかりである。
できればも一度見たい。も一度といはず、二度三度。
それがかなはぬのが憂世かな。
 

壽 初春大歌舞伎 昼の部@新橋演舞場


1月2日の月曜日、新橋演舞場に壽 初春大歌舞伎の昼の部を見てきた。
いはゆる初芝居といふアレである。
初芝居は歌舞伎座の昼の部、と決めてゐたが、現在歌舞伎座はない。
仕方がないので演舞場。さういふ人も多いのではないかと思ふ。
今年の目標は「分相応」といふことで、三階席からの観劇。
大向かうの方々も今日は和装でびしつと決めてらつしやる方もちらほら。
 
とかいひながら、いきなり「相生獅子」の幕の開く直前に、「成駒屋!」とか聲をかけてゐる人がゐてびつくりだ。
多分、新年初のかけ聲をねらつたものかと思ふが、残念ながら、「相生獅子」には成駒屋は出てこない。
 
実は先月南座でも似たやうなことがあつた。「與話情浮名横櫛」すなはち「切られ與三」の木更津見初めの場、与三郎と金五郎の出てくるところで揚幕のちやりんといふ音がした途端、「松嶋屋!」「音羽屋!」と聲がかかつた。
このときも三階席で見てゐたので、聲のする方をふりかへつてもよかつたのだが、「そんな、周瑜のやうなことをしてはいけない」とみづからを戒めたのだつた。
 
三階席には、周瑜のやうな人が必要なのかもしれない。
そんな思ひを新たにした新年初芝居であつた。
 
閑話休題。
 
「相生獅子」は、初春めいた雰囲気のある大変結構な一幕であつた。
おつとりお姉さまにしつかり妹分といふ感じで見てゐて微笑ましい気分になつてくる。
思へば「相生獅子」にはいい思ひ出がない。
二つ扇でもたついてゐたりとか、そもそも「ほんとにさらつたの?」といふくらゐダメダメだつたりとか。
花形の時分のさかりの女方がふたりも出てくるのに、とつてつけたやうな演目だなあ、もつたいないなあと思つてゐた。
かうなうては、といふ出来だつたと思ふ。
 
祇園祭礼信仰記」のうち「金閣寺」は、例によつて碁がはじまつてしまふとそちらばかり見てしまつてどうも。
菊之助の雪姫は初役で玉三郎に教はつたのださう。
縛られるくだりあたりはとてもきれいでよかつたけれど、全体的に「姫」といふよりは「娘」のやうな感じだなあと思つた。雪姫は三姫の一とはいふものの、人妻だし、お姫さまの出といふわけでもないし、それでもいいのかなあとも思はないでもないが、チト物足りない。物足りないのはあつさりとした感じがするからかも。
あつさりといへば、この幕全体があつさりとした出来であつたと思ふ。
三津五郎の大膳は大きくてよかつた。悪さうだし。ほんとに雪姫をどうにかする気はあまりなささうで、大望といふか野望といふかを達成したいタイプだらう。
梅玉の東吉はさはやかで、でもなんとなくチト悪さうといふか悪賢さうな感じがある。秀吉だと思つて見るからか。
さうさう、梅玉の東吉は「碁笥」を「コゲ」と云ふてゐた。歌舞伎ではときどき「碁笥」を「コゲ」と云ふことがある。床の竹本も。本行では一度しか見たことがないが、このときは「ゴケ」と云つてゐた。文楽でも「コゲ」と云ふことがあるのか知らん。今後も気をつけていきたい。
この幕で一番こつてりしてゐたのは歌六の直信。十二月の国立劇場の「江戸城の刃傷」でもさうだつたけど、チト若い役でなんとなく嬉しい。ここのところ老けが多い歌六だが、できれば若い役もやつてほしいなあ。老け役がいいのがまたいいやうな悪いやうななんだよね。
東蔵の慶寿院もこつてりしてゐていい。
 
「盲長屋梅加賀鳶」の「本郷木戸前勢揃ひ」、花道のつらねは三階席からだとほとんど見えない。でも聲で誰だかわかるからあまり問題はなかつた。三階席はやはり見えないことを楽しむ席だと思ふ。
三津五郎の江戸つ子はいいねえ、と思つたり、日陰町の兄ぃに惚れ惚れしたりと短い間にもいろいろ忙しい一幕。
吉右衛門の松蔵はここのところにしては初日のわりにちやんとセリフが入つてゐてちよつと胸を撫で下ろしたり。菊五郎の梅吉とのやりとりとか聞いててわくわくするねえ。
これ以降は菊五郎は道玄になるわけだが、これがねえ、いいんだよねえ。なにがいいのか我ながらわからないのが情けないのだが、いい。
菊五郎は、やつがれが芝居を見始めたころはまだ女方が多くて、それはそれはうつくしてまことに結構だつたわけだが、まさか、法界坊や道玄をやるやうになるとはねえ。多分、好きなんだらうといふ気がする、法界坊や道玄のやうな役が。楽しさうだもの、見てて。役者が楽しさうだと見てゐるこちらも楽しくなつてくるといふ道理。
道玄といふと、富十郎を思ひ出すのもいい演目だと思ふ。富十郎は道玄をやるときにかすれたやうな聲を出してゐたが、菊五郎は特に変へてはゐなかつた。そのままでいいと思ふんだが、おそらく「道玄をやるときはさういふ聲にする」といふ口伝があるのだらう。
時蔵のお兼もいい。東蔵のおせつがほんとにあはれに見えてくるのは、東蔵がいいことももちろんだが、時蔵のお兼のどこか得体のしれなさが醸し出すものだらうと思ふ。
 
夜の部はまた今度。