おもしろいことおもしろいこと

主に見てきた芝居の話

壽 初春大歌舞伎 昼の部@新橋演舞場


1月2日の月曜日、新橋演舞場に壽 初春大歌舞伎の昼の部を見てきた。
いはゆる初芝居といふアレである。
初芝居は歌舞伎座の昼の部、と決めてゐたが、現在歌舞伎座はない。
仕方がないので演舞場。さういふ人も多いのではないかと思ふ。
今年の目標は「分相応」といふことで、三階席からの観劇。
大向かうの方々も今日は和装でびしつと決めてらつしやる方もちらほら。
 
とかいひながら、いきなり「相生獅子」の幕の開く直前に、「成駒屋!」とか聲をかけてゐる人がゐてびつくりだ。
多分、新年初のかけ聲をねらつたものかと思ふが、残念ながら、「相生獅子」には成駒屋は出てこない。
 
実は先月南座でも似たやうなことがあつた。「與話情浮名横櫛」すなはち「切られ與三」の木更津見初めの場、与三郎と金五郎の出てくるところで揚幕のちやりんといふ音がした途端、「松嶋屋!」「音羽屋!」と聲がかかつた。
このときも三階席で見てゐたので、聲のする方をふりかへつてもよかつたのだが、「そんな、周瑜のやうなことをしてはいけない」とみづからを戒めたのだつた。
 
三階席には、周瑜のやうな人が必要なのかもしれない。
そんな思ひを新たにした新年初芝居であつた。
 
閑話休題。
 
「相生獅子」は、初春めいた雰囲気のある大変結構な一幕であつた。
おつとりお姉さまにしつかり妹分といふ感じで見てゐて微笑ましい気分になつてくる。
思へば「相生獅子」にはいい思ひ出がない。
二つ扇でもたついてゐたりとか、そもそも「ほんとにさらつたの?」といふくらゐダメダメだつたりとか。
花形の時分のさかりの女方がふたりも出てくるのに、とつてつけたやうな演目だなあ、もつたいないなあと思つてゐた。
かうなうては、といふ出来だつたと思ふ。
 
祇園祭礼信仰記」のうち「金閣寺」は、例によつて碁がはじまつてしまふとそちらばかり見てしまつてどうも。
菊之助の雪姫は初役で玉三郎に教はつたのださう。
縛られるくだりあたりはとてもきれいでよかつたけれど、全体的に「姫」といふよりは「娘」のやうな感じだなあと思つた。雪姫は三姫の一とはいふものの、人妻だし、お姫さまの出といふわけでもないし、それでもいいのかなあとも思はないでもないが、チト物足りない。物足りないのはあつさりとした感じがするからかも。
あつさりといへば、この幕全体があつさりとした出来であつたと思ふ。
三津五郎の大膳は大きくてよかつた。悪さうだし。ほんとに雪姫をどうにかする気はあまりなささうで、大望といふか野望といふかを達成したいタイプだらう。
梅玉の東吉はさはやかで、でもなんとなくチト悪さうといふか悪賢さうな感じがある。秀吉だと思つて見るからか。
さうさう、梅玉の東吉は「碁笥」を「コゲ」と云ふてゐた。歌舞伎ではときどき「碁笥」を「コゲ」と云ふことがある。床の竹本も。本行では一度しか見たことがないが、このときは「ゴケ」と云つてゐた。文楽でも「コゲ」と云ふことがあるのか知らん。今後も気をつけていきたい。
この幕で一番こつてりしてゐたのは歌六の直信。十二月の国立劇場の「江戸城の刃傷」でもさうだつたけど、チト若い役でなんとなく嬉しい。ここのところ老けが多い歌六だが、できれば若い役もやつてほしいなあ。老け役がいいのがまたいいやうな悪いやうななんだよね。
東蔵の慶寿院もこつてりしてゐていい。
 
「盲長屋梅加賀鳶」の「本郷木戸前勢揃ひ」、花道のつらねは三階席からだとほとんど見えない。でも聲で誰だかわかるからあまり問題はなかつた。三階席はやはり見えないことを楽しむ席だと思ふ。
三津五郎の江戸つ子はいいねえ、と思つたり、日陰町の兄ぃに惚れ惚れしたりと短い間にもいろいろ忙しい一幕。
吉右衛門の松蔵はここのところにしては初日のわりにちやんとセリフが入つてゐてちよつと胸を撫で下ろしたり。菊五郎の梅吉とのやりとりとか聞いててわくわくするねえ。
これ以降は菊五郎は道玄になるわけだが、これがねえ、いいんだよねえ。なにがいいのか我ながらわからないのが情けないのだが、いい。
菊五郎は、やつがれが芝居を見始めたころはまだ女方が多くて、それはそれはうつくしてまことに結構だつたわけだが、まさか、法界坊や道玄をやるやうになるとはねえ。多分、好きなんだらうといふ気がする、法界坊や道玄のやうな役が。楽しさうだもの、見てて。役者が楽しさうだと見てゐるこちらも楽しくなつてくるといふ道理。
道玄といふと、富十郎を思ひ出すのもいい演目だと思ふ。富十郎は道玄をやるときにかすれたやうな聲を出してゐたが、菊五郎は特に変へてはゐなかつた。そのままでいいと思ふんだが、おそらく「道玄をやるときはさういふ聲にする」といふ口伝があるのだらう。
時蔵のお兼もいい。東蔵のおせつがほんとにあはれに見えてくるのは、東蔵がいいことももちろんだが、時蔵のお兼のどこか得体のしれなさが醸し出すものだらうと思ふ。
 
夜の部はまた今度。